私はこれまで曹洞宗の総本山総持寺で泊まりの坐禅の会や近所のお寺での坐禅の会への参加や書籍で坐禅(瞑想)について調べるなど瞑想して(座って)きました。
日常でも座っています。
そもそもはスティーブ・ジョブズや松下幸之助などの著名人が坐禅をしているということを見聞きしたことから興味を持ち始めたわけですが、最近までなぜ座ることが良いのかわからずにいました。
しかし、現在では自分自身かなり納得して座っています。
納得できるようになったのはこの書籍との出会いでした。
この書籍では瞑想への入り方が順をおって説明されています。
坐禅の会などで教わるものは体系的なものでなくどこか感覚的で、座っていても「このやり方でよいのだどろうか」という不安な気持ちがなくなることはありませんでした。この書籍では明確に示されていますし、合点のいくものですので、迷いなく瞑想に入っていけていると思います。
そもそも瞑想をどのようにやるものなのかわからないという方は、このやり方をオススメします。わかりやすく、瞑想に入りやすいです。
さて、坊主ではまったくありませんが、素人ながら私なりに解釈して実践している瞑想について、なぜ瞑想をするのかという切り口で説明してみたいと思います。
なぜ瞑想をするのか
坐禅をする際に「ただ座りなさい」だとか「坐禅をすることによる効果を考えてはいけない」などといったことを聞いたことがあります。これはどれも真理だと思いますが、現代人の我々は効果があるからやるという考えを捨てることはできません。
そしてかくいう私も効果があると思っているから座っています。しかしながら、効果のことは考えていないということも事実です。ここでなにやら禅問答的になってきますが、どちらも真実です。
それでは本題に入ります。
なぜ座る(瞑想する)のでしょうか。
大きく2つで説明したいと思います。
- 真の落ち着きを得るため
- 別の世界を知るため
真の落ち着きを得るため
とでも表現すると一番近いのではないかと思います。
ただ座るとここに行き着きます。
それはなぜでしょう。
それは己を「現在」に打ち付けるためです。
なぜ現在に己を打ち付けると真の落ち着きが得られるのでしょうか。
そもそも現在に己を打ち付けるとはどういうことでしょうか。
落ち着きの反対は不安といえると思います。
不安がない状態が、落ち着いている状態といえます。
不安はなぜ生まれるのでしょうか。
それは我々の思考が現在から離れて過去や未来に飛んでいくからです。
不安は未来からやってくる
たとえば、これから第一志望の就職の最終面接があるとします。落ちたらその会社には入れないわけです。この面接に望むにあたって不安にならないという方は、この先を読む必要はありません。普通は不安になります。
なぜ不安になるのでしょうか。
これから起こる結果がわからないということと、落ちたら自分の望みが叶わないという悪いことが起きるかもしれない可能性があるからです。
我々は日々未来のことを考えて生きています。
9時に会社に着くために、8時の電車に乗る。8時の電車に乗るためには、7:30に家を出る。7:30に家を出るためには6:30に起きる。6:30に起きればいいから夜は0時までは好きなことができるなどなど。
こうやって現在の自分から未来に飛んでいき、頭の中で色々なことを想像して、ああでもないこうでもないと自分の作った未来の中をぐるぐる回っています。
未来を考えると自分の思い通りに事が進むかわからないので、不安になります。
未来を考えるから不安になるのです。不安は未来からやってきます。
不安は過去からやってくる
不安は過去からもやってきます。後悔という形で我々を落ち着きから遠ざけ不安に陥れます。
過去の失敗を思い出して、あのときこうしておけばよかったとか、こんなことが起きなければとか、こうなっていればなどなど、過ぎてしまった出来事を度々思い出して後悔の念にかられます。
現在から離れて過去に飛んでいくと後悔という名の不安がやってきます。
現在に己を打ち付けろ
未来や過去に思考が飛ぶと不安になることがわかりました。
では、この不安を払拭するためにはどうすればよいのでしょうか。
そうです。「現在」に自分を打ち付けておく必要があります。未来や過去へ飛ぼうとする自分を現在に打ち付けるのです。
しかし未来や過去にすぐに飛んでしまう我々を現在に打ち付けるのは容易なことではありません。
そこでただ座るのです。
ただ座る
我々は通常「過去→現在→未来」の時間軸の中にいます。
たとえば、裁判に勝とうとする場合、過去の判例を紐解いて、今回の案件に当てはめをして、するべき行動を決めます。
裁判に勝つが「未来」で、根拠とする判例が「過去」で、行動が「現在」です。
この「現在」の行動は、何か目的があっての行動であることがほとんどです。
我々は、「過去」を参考にして「未来」のために行動するということが習慣になっています。
つまり、過去や未来に飛びながら現在にいる(行動する)わけです。行動しているときも常にその先のことを予想して行動しているのではないでしょうか。
つまり、我々はほとんど現在にいないのです。
現在にいないということは、この瞬間、過去や未来に飛んでいるわけです。
過去や未来に飛ぶと不安になります。だから落ち着かないのです。
ただ座るとどうなるでしょう。
ただ座る。何にもしていません。行動をしていません。
座るという行為は未来のために何かしているわけではありません。
また、未来のためではないので、過去を振り返る必要もありません。
ただ座るという行為は、過去と未来の影響をそれだけで小さくします。そして、現在が大きく顔を出してくるのです。
瞑想をしていて邪念が起きてくるということで、うまくいかないなどと思うかもしれませんが、邪念が起きてきたとしても、時間軸の中にいるよりずっと現在に近いということだけでも効果があるといえます。
座るという何もしない行為が、不安を遠ざけ、真の落ち着きに近づけてくれるわけです。
まずは座るだけでいいのです。いつも我々を縛っている時間軸の外に出られるのですから。
己を現在に打ち付ける(時間軸の外に出る)ことで、不安から解放されるというイメージはできたのではないかと思います。
でも瞑想(禅)を理解する上ではこれだけでは片手落ちです。
続いてのなぜ瞑想をする(坐禅をする)かは、これです。
別の世界を知るため
我々のもっとも高い関心事は、人生を幸せに生きることと言えるのではないかと思います。
将来に不安がないだけのお金を稼ぐ必要があるとか、ベストなパートナーと結婚をするだとか、幸せな家庭を気づくだとか、人によって求めるものは様々だと思います。
今自分がいるとおり、当たり前のように明日が来るという前提のもと、将来のために今を生きるという思考は当たり前にあると思います。
なぜ会社にいくのですか?
休んだらどうですか?
普通は休みません。
今日無断欠勤したら、信頼を失い、昇進できず、給料が下がる。こんなことが容易に想像でき、家族がいる家庭であれば、余計こんなことはできません。
なぜですか?
将来、より幸せに暮すためでしょう。
より幸せって何ですか?
我々は、しばしばこの2つの価値を比較します。
幸せと不幸、善と悪、光と影、陰と陽などなど。
通常は不幸を避け、幸せを求めます。幸せでないと感じたときにがっかりします。自分よりお金をずっと稼いでいる人がいることを知って大ハッピーになる人がどれだけいるでしょう。
ただここで、座ってみてください。
現在に己を打ち付けた状態で、他者との比較ができるでしょうか。
ただ座るということは、瞑想が深まれば深まるほど、現在に己が溶け出します。自分というものがなくなります。
このときあなたは生きていますか?
もちろん生きています。
その状態が幸せですか?
幸せとかそういう問題ではなく、ただ生きています。
幸せとか不幸とかを感じることのない世界に生きているわけです。
これはあなたの人生ではないですか?
いや、生きているのでこれも紛れもなくあなたの人生です。
幸不幸を考えて、より幸せに生きたいと願って日々努力して生きているのも人生です。
失敗して、悲しい。成功して嬉しい。それも人生です。
でも生きるというのはそれだけではありません。こういう時間の外に出た何にもない世界でも我々は生きているのです。
例えていうなら、植物、近くに咲いている雑草が生きているように、同じように我々も生きています。瞑想しているときにおいて、その植物と我々にどのような違いがあるのでしょう。
瞑想するということがこの世界を教えてくれます。
これが、なぜ瞑想するかのもう一つの答えです。
瞑想することで、我々が必死に生きている人生を一歩引いて見ることができるのではないでしょうか。それがすべてではないわけです。
ちなみに冒頭で紹介した書籍「青空としてのわたし」では、この瞑想で知る世界で触れる自分が本当の私で、それは青空のようで、未来や過去に飛んで生まれる思いが雲だと言っています。雲は自分ではなくエゴが見せるもので、本当の自分はこの青空なんだと言っています。
瞑想に近い状態
瞑想のイメージがまったくわかないという方のために身近な例を示してみたいと思います。
マラソンが好きな方は、なぜ走るのでしょうか。
体力やダイエットのため、という方も多いかと思いますが、何も考えずにただ走っている瞬間があり、そのときが気持ちがいいということを知っているからではないでしょうか。ランナーズハイと言われ方をするのかもしれませんが。
バッターボックスで夢中でバットを振って、気づいたら二塁にいました。どんなボールを打ったか覚えていない。あとでメンバーから最高のバッティングだったと言われる。これはゾーンという呼ばれ方をするのかもしれません。
花火を見て、綺麗だと感じて見入っているあなたは、過去にいますか?未来にいますか?
今確かにそこにいるのではないですか。
あなたは溶けてしまって思考という形ではなく、損得や善悪など、そういったことと無縁で、将来の不安や幸不幸とはまったく別の世界にいるのではないですか。
そういう意味で、個人的には花火や桜のひらひらと散るその心奪われる有様を禅と呼んでもよいのかもしれないと思ったりします。(これは余談ですが。)
最後に
なぜ座るか、なぜ瞑想するか。
イメージが持てましたか。
この山下良道著の「青空としてのわたし」を読むことで、これまでの坐禅の経験をこのように解釈することができました。
私は坐禅(瞑想)により死ぬのが怖いという感覚がかなり薄れました。大切な家族がいますので、その家族と会えなくなるのは当然悲しく嫌なので、死にたくありませんが、死ぬということがどういうことかを坐禅によって感じることができるので、死ぬこと自体への恐怖感はかなり和らいでいます。
瞑想が深まると、生きている死んでいるということの外に出ますので、そういう意味では生きていようがいまいが関係のない静けさの中にいることに気づきます。死ぬってこんな感じかなとふと思ったりします。
ただ、もちろん死にたくありません。
「青空としてのわたし」の内容は、これまで私が記したものと別ものです。私が解釈したものですので、内容はこういうものではないということを最後に付け加えさせていただきます。
坐禅の歴史と坐禅のやり方まで丁寧にわかりやすく記されているものとしてまぎれもなく良著です。
坐禅に興味がある方は必読の書だと思います。